新作ですが順調とはいかなくても少しずつ進んでおります。年末年始に8連休があるのでそこで一気に進める予定です。内容はまだ公開できませんが、まえがきと作中に挿入予定のマンガを公開いたします。
「穏やかな夜に身を任せるな」
私たちは革新的なテクノロジーに囲まれながら、どこにいても都市的な恩恵を受けられる社会で生きています。それは実にすばらしいことですが、都市化の中で得たものより失ったものの方が多いことに気づく人は極まれです。
無計画に都市という機能をつくりあげた場合、インフラを十分に整えることができず、私たちは様々な公害に悩まされます。そこで昭和43年、日本各地で都市計画という公的プロジェクトが立ち上がり「きれいで利便的な街づくり」を行ってきました。しかし、私たちはこの計画により物事の本質を見失うことになります。都市化と向き合う中で、私たちはその意味をもっとよく考えなければなりません。
私たちは都市化の中で、徹底的に所有から共有へと変遷を遂げてきました。すなわちこれは、税金やサブスクライブなどの料金を対価に労力を外部化するという意味です。「コンビニが私の冷蔵庫代わり」などという方も最近はみられるようになってきましたが、まさにこれが労力の外部化です。こういった社会の中で企業が生き残るためには、商品を効率的に各地へ運ぶ「流通」やそれをなかだちする「仲介」、あるいは営業力を拡大することが求められました。いわゆるサービス業です。
私自身もサービス業に勤めておりますし重要な社会基盤ですから、それ自体を批判するつもりは毛頭ありません。しかし、私たちが都市におけるサービスを充実させていく中で忘れてはならないことがひとつあります。
それは「維持して守る努力を怠らないこと」です。壊れたら買い換えたほうが安くて楽、ごみは出ただけ袋を分けて決まりの場所に投げる、玄関の外の出来事は私の責任とは一切関係のない、という考え方は自分という存在を極端に贔屓し肥大化させていきます。
そんな自分自身に少しでも気づいた時、便利な道具やサービスを一旦手放そうと試行してみましょう。自分の手で料理を作ったり、家の中にある道具をきれいに手入れしたり、仕事などで忙しくても何か継続できるよう習慣づけていくのです。その時にあなたは、あることを実感することができます。
それは、物体という明らかに自分ではないものに意識を向け、所有し管理することで、自分の領域に内包できるという実感です。埃が立てばくしゃみが出るし、家の中で虫の死骸が出たら少し驚くし、生きているだけでごみが出ます。そういうふうに、自分で所有し管理する対象を増やせば増やすほど、自分の領域が広がっていきます。所有するということは単なる独り占めではなく、自分というテリトリーに含めて大事に扱うということです。
さらに自分という領域を広げていくと、そこにストーリーが生まれます。これは学生の時に友達が買ってくれたペンケースだとか、もう10年も使っている革靴だとか、人によって様々です。とにかく、道具という明らかに自分という人間の構成要素ではない物体と、ストーリーという明らかに自分の頭の中にあるものが結びつき、自分という存在を拡張するものとしてその道具が存在しているという実感が沸いてくるのです。
では、都市や社会という存在はどこまでが自分に内包されるのでしょうか。それを考えたときに、絶対の自由という権利があると勘違いしてきた自分が、いかに無関心で無力であるか痛感させられます。
道端に捨てられたタバコの吸殻は、誰が拾いますか?道に飛び出した子供を、怒るのではなく叱れる大人はどこにいますか?駅の階段で転倒した老人は、助けられるまでに何人の人間が素通りしますか?その痛感は一過性のものではなく、社会や都市という機能に耳を傾けている限り、この思索は永遠に続いていくのです。どれだけ高度なテクノロジーに囲まれた未来であっても、一人ひとりの日々の頑張りがあなたの住む町を構成している事実は変わらないのです。
FMシアター『帰ってきたジョバンニ』では、ジョバンニが「見たってどうしようもできない」と躊躇したために、瀕死の牛を看取ることなく孤独に死なせてしまいます。作中でそのことを、「難しいよ、この町に住みつくことがさ。旅をしていれば見ないで済むものも、住みつくとなると見ないでは済まされないからね。」と非難しています。
私たち自身に思索を続ける意志があれば、季節の移ろいや人々の営み、その中で否応なしに生まれる穢れや面倒ごとと向き合うことができます。
また、SF映画『インターステラー』では「穏やかな夜に身を任せるな。老いた魂を燃やし、終わりゆく日に怒りをたぎらせろ。」という台詞があります。
理想の世界に逃避するのではなく、今起きていることを自分の目で見て感情を動かし、行動へと昇華させていかなければなりません。
「人馬一体」
人馬一体という言葉がありますが、単に”操りやすさ”という良し悪しを象徴する言葉ではありません。むしろ、人間側が馬の動きを感じてその歩調に合わせてやるというのが人馬一体の本質です。自転車でいう馬の歩調とは何でしょうか。その回答の分解能を高めていくのがこの書籍の狙いです。
自転車にはジオメトリーというものがありますが、私は数値上のスペックを恃みに自転車の性格を断定することを好みません。先述したように、私は今までに多数の自転車を集中的に運用する(一時的に人から借りるという意味ではなく、所有してしっかり乗り込む)ことで多様な自転車の性格を体感してきました。そこで学んだことは、人間側に経験があるかどうかがその自転車を乗りこなせるかどうかを決定付けるということです。
たとえば、自転車の安定性は単に重心が高いからどうとかフォークの剛性がどうとかいう単一の指標だけではわかりません。重心云々などという話はあくまでその自転車の歩調を変える一因でしかなく、人間に歩調を乱す要因がひとつでもあれば、どんな自転車であっても均衡は破綻します。何であれ重要なのは、人間側が自転車という馬の歩調に合わせられるかどうかなのです。
では、その歩調はどのように合わせていけばよいのでしょうか。まず皆様には是非この書籍をお読み頂くことで、あなたの所有する自転車を”自分の能力を拡張する道具”として今まで以上に愛情を注いで頂けると確信しています。それでは、『自転車の動的バランス』お楽しみください。
『自転車の動的バランス』
『自転車のキホン』シリーズ完結後、完全新作として復活!
フォトジェニックな解説本とは一線を画し、”動的”に自転車を理解して人馬一体を目標とする全く新しい教本。
体も自転車も痛めず、正しくバランスを保つことに特化した超フォーカス型の解説に刮目せよ!
2023年 3月~4月頃に発売予定。
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